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「センス」という呪いの言葉と、その育て方の話。

「お前、センスないよね」

この言葉が苦手。嫌い。
そもそも、誰でもこんな事は言われたくないだろう。

でも、同時にこの言葉も好きではなかったりする。

「◯◯さんはセンスが良いよね!」

純粋にお褒めいただく言葉としては嬉しいのだけど、少々モヤっとすること多々あり。

今日はこの「センスがない」という話を起点に、僕なりの「センス」の考え方について書いていこうと思う。


まず「センスがない」は存在しない

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まず「センスがない」というは本来存在しない。
正しくは「センスが違う」だ。

他者から言われる「センスがない」という発言は、
「何か」を見た「評価」であり、その「他者」が今まで見てきた、その人なりの「センスがあるもの」から比較して生まれ出た言葉である。

対して、自分の言葉で発する「センスがない」は、自分の「何か」を見て、自分が今まで見てきた「センスがあるもの」から比較して生まれた言葉である。

センスがこの「比較」「批評」から生まれているとすれば、その「何か」にも必ず「センス」が存在することになる。
”無”を比較することはできないから。


あなたのセンスは既に宿っている。

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「何か」を作るとしよう。
どう作ろうか?

頭の中で想像を膨らませる。
資料を探し調べ上げる。
とにかくラフを描きまくる。
人によって作るためのプロセスはまちまちだ。

ただ、その時に誰もが間違いなくしていることが、出てきたアイデアやアウトプットを、選んだり、まとめたり、「良い」と自己評価したりをして
自分の中で「意思決定」をしていることだ。

こうしてあなたの中、何個も何十個も何千個もの意思決定の連続で出来上がったアウトプットそのものに「あなたのセンス」が宿っている。

ゆえに、センスがないは存在しない。

ちょい揚げ足感もあるけど、ゼロというのは諦めの思考になることが多いので、思考の転換だと思っていただけると幸いです。


狭義と広義におけるセンスの真偽

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あなたがアウトプットをする発信者だとして、そこには必ずそのアウトプットを受け取る「受信者」も存在する。

受信者側にも見知ったり、経験したことに基づく「その人特有のセンス」が存在している。

これがデザインになると、受信者がエンドユーザーとなり「大多数エンドユーザーのセンスを想像した、その人の思考に基づいたセンス」にもなったりする(それが必ずしもユーザー1人1人のセンスにはならない)

発信側がO、受信側にA・B、その先の大衆をXとすると、以下のようになる。
デザイン制作に考えれば、Oがデザイン担当の私、Aがディレクター、Bがプロデューサーや、大衆Xがエンドユーザーという感じ。

Oのアウトプットに対し、

- A、B、大衆X共に良いリアクション
  →O、A、B、共にセンスが合致

- Aは良い印象、Bが悪い印象、大衆Xには良い印象だった
  →BのセンスがAや大衆Xとのセンスと異なる
→一般的に「Bのセンスがない」となる。

- A、B、共に悪い印象だったが、大衆Xには良い印象という結果
  →AとBのセンスが大衆Xとのセンスと異なる
→一般的に「A、Bのセンスがない」となる。

etc…

Bが発する「Oにセンスがない」という反応はBそのものセンスに基づいたものであって、それが大衆Xの持つセンスと必ずしも合致するわけではない。

これは大衆Xが着地点になっている場合というだけであって、この着地点がBになるだけで、Oのアウトプットの評価が大きく変わってくるわけだ。

もちろん、逆に結果も存在する。


センスはナマモノ

A,B,大衆Xの評価に対してのパターンを少しだけ書き出してみた。

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これはあくまで一例であって、それぞれの評価がまったく違う結果になることを忘れないでおきたい。

また、大衆Xは個人ではなく集団また概念なので、
その時代の流行、政治、風習、国籍などのたくさんの変数によって、結果が様々なに変化する。

こうなっていくると、センスはいつまでの同じものが現存しない、ナマモノに近いものがあるかもしれない。


センスをお花畑のように育てたい

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では、個人間・政治・流行などがめまぐるしく変わる中で、センスを育むにはどうすれば良いのか。

すごい主観だけど、僕はお花畑で例えられるかもと考える。

蒔いた種に水を撒いたり、肥料を与えたり、あなたなりの育て方(あるいは誰から教わるのか)で種から芽が出て育っていく。
そうして、咲いた花が「あなたのセンス」になっていく。

センスの花は一輪だけではなくて、あなたが良いと選んだ水や肥料によって育った「服」「デザイン」「趣味」といった様々な「センスの花」があなたのプランターの中に、育っていく。

あなたのお花畑で育てた花たちを、花束として誰かにあげるといった感じ。

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あなたが植えて育てた花、そしてそのお花の積み方というアウトプットが、その人から、大衆からどう見られるのか、どう感じるのか。
こういったフィードバックが相手から見たあなたのセンスになるということだ。

ただ、忘れてはいけないのだけど、花も枯れる。

枯れる前に摘み取るのか、枯れてから摘み取るのか。
次の種は何を撒くのか。
そこもセンスに関わってくることかもしれない。


もし「真のセンスない」があるのだとしたら

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じゃあ、仮に本当に「センスがない」ということがあるとすれば、なんだろうか。

先程の花畑で言えば「更地」であると思う。

まだ花が咲いていない、という状況ではない。咲く前のセンスの青葉や蕾に反応する人もいる。

更地、というのはつまり、種から何も育てていない状態。極論で言うとセンスがない、というより何も知らない状態に近いかもしらない。

(ただ、何かしらの状態で苗を使っていきなり花が咲く、とかもあるかもしれない)


あなたにとっての「良い」と「悪い」を選んでいく

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ちょっと比喩が過ぎてしまったけど、
要は、あなたにとっての「これは良い」と「これは悪い」の価値観を見つけておくことが大事だと思う。

「この花はキレイだな。好きだな。」
「このドラム缶の汚れ。好きだな」
「そういう色合いは苦手だな」

といったことを自分のものとして大事にしておく。
これを繰り返していくことで「あなたのセンス」が育まれていく。

例えば、その「あなたのセンス」を「良い」と思ってもらうとすれば、あなたの選び方で、その事柄について話したり、感想として、アウトプットをしてみる。
そのアウトプットをして、した人やまわりの印象がどう思うのかを見てみる。

仮にそこで「センスがない」と拒絶されたとしても、
それは「状況」「対象」などの様々な理由で合っていないだけであって、センスがないわけではない。

センスというのは感性や感覚であったとしても、それの作り方は知識などのインプットの取り込み方と活かし方、そして、それを当人がどう反芻、利用するかであって、生まれ持ったものではない、ということだ。


「センス」という言葉に真摯に向き合う。

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「センスがない」「センス良い」という言葉が飛び交うのは、
何についてのセンスが良いのか、どの点がセンスが良いのかと、
センスの中身が抽象化されている、あるいは、発した本人でもセンスの具体化ができていない(もしくはそれらを意図的に隠しているか)ということが考えられる。

だからこそ、センスに関する物言いがあった時は、なぜそう感じたかを具体化できると良いかもしれない。

私自身も「センス」という言葉に逃げ隠れないように、ちゃんと具体的に良いところ、悪い所や、相手の着眼点を理解していくようにしていきたい。

「センスがない」という言葉は、多くのデザイナーにとって「呪いの言葉」でしかないけど、
この言葉に面食らわずに、そのセンスという言葉の深層にある本質を見に行く試みをしていった方が良いかもしれない。


おっぱい。

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